松平健氏も参加!和歌山市の歴史あるお祭り――和歌祭四百年式年大祭(令和4年5月15日開催予定)②
ご覧いただきありがとうございます。
和歌山市広報広聴課です。
先日は「和歌祭四百年式年大祭」についてご紹介しました。
元和8年(1622年)に紀州東照宮の祭礼として始まった和歌祭は、明治中期以降は日本三大祭りと称され、和歌浦に大勢の観衆が押し寄せました。
しかし、昭和に入り戦時体制が強まるなか、昭和12年(1937年)を最後に10年間中断。その後、昭和23年(1948年)からは和歌山城周辺で「商工まつり」のパレードの一部として開催されましたが、昭和59年(1983年)を最後に開催が途絶えました。
それから16年後の平成12年(2000年)、地元の有志が和歌祭保存会青年部を発足。そして現在は、和歌浦で本来の姿に近いかたちで開催されています。
地元の人がつないできた和歌祭について、今回は、市報わかやま令和4年5月号の特集「和歌祭 風流の大祭」から、和歌祭実行委員会顧問の保井元吾さんに伺ったお話をご紹介します。
――「和歌祭」を未来に残したい
和歌祭には株組織というものがあって、芸能部門の各集団を「株」と呼びます。株には長老がいて、ピラミッド状に弟子や後継者がいますが、平成12年ごろは長老の高齢化が進み、株組織が崩壊しつつありました。
技術的な部分を含めてこの祭りを後継者に残すために、今自分たちが長老に話を聞いて習得した技術や歴史を後継者に伝えていくしかないと考え、有
志を集って青年部を結成し、それぞれの株に弟子入りしました。
――「和歌祭 風流の大祭」として
戦後、和歌祭は商工まつりの一部として、渡御行列が和歌浦から和歌山城へ向かうかたちで開催された時期がありました。
ただ、その形態ではイベントやパレードの要素が重要視されて、「風流の大祭」と称される本来の神事ありきの和歌祭ではなくなっていました。
私たちは、この「風流」という言葉を大切にしています。
元和8年に徳川頼宣が和歌祭を創始した際「民衆と一緒にできる祭り」を大切にしたとされています。
そのため、和歌祭は官(紀州藩)の公式祭でありながら、民衆の祭りでもありました。
祭りの日は無礼講で、民衆が華やかな衣装を身にまとい、芸能部門を作り上げる。これが「風流」であり、私たちが非常に大事にしていることです。
風流まつりということで、現在これだけの種目(約40種目)が残っており、一堂に見られるのは和歌祭のみです。
この創始の時の形を変えずにずっとやっていきたい。
パレードの一部じゃなくて、神事ありきの「風流の大祭」と呼ばれた本来の和歌祭をやりたい。
この風流を今後途絶えることなく続けていくために、本当の意味での後継者を育てていきたいと考えています。
――地元の人にとっての和歌祭
華やかなんですよね、この祭りって。
長老に聞いた話だと、華やかな衣装を着たり、子供が着物を重ね着したりパッチワークのように衣装をアレンジしたり、自分の個性をどれだけ出せるか競っていたそうです。
そういうのって生きがいになるじゃないですか。
祭りが近づくとウキウキと気持ちが高揚する。
和歌浦に一体感が出てくる。
祭りってそういうことだと思います。
――多くの人に知ってもらう
今回の四百年式年大祭は、本来の和歌祭とは違うルートで行います。
今回は和歌山城まで行くことで、たくさんの人に「こんな祭りがあるんだ」と知ってもらい、次の年からは和歌浦で本当の和歌祭を見に来るきっかけとなってほしいと思っています。
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創始400年の節目を迎える「和歌祭」。
広報活動するのに、参加される方々に触れるたびに、地元の祭りへの熱意が感じられ、和歌山市民のひとりとして「和歌祭四百年式年大祭」の開催を楽しみに待っております。
県外にお住いの皆さまにも、今年度の特別なお祭りを、ぜひご覧いただきたいと思います。